”戦い”に滅ぼされた”愛” -ちよちゃんの死と神谷先生の悲しみを考えるー

 「ねぇ...覚えてる?春のあの日...。」

 「えぇ、覚えているわ。」

 

致命傷を負った一人の少女が、その身に迫る死を悟りつつも、穏やかに走馬灯をみるように、友との思い出を振り返っている。

 ミュージカル座の「ひめゆり」の中でも特に印象に残ったシーンの一つだ。

そして、このシーンにおいて特に気になった存在、それは神谷先生である。ちよちゃんをその手に抱えて連れてきた時こそ、級友たちが彼女に励ましの声をかけられるように、との思いからか、ベットに下ろすやいなや、自分は後ろへと下がり、少女たちを前に押し出してやる。しかしながら、ちよちゃんがとうとう息を引き取ったとき、まるで少女たちをかき分けるようにして、なくなった彼女の方へと駆け寄り、その死を誰よりも嘆いているのは、誰でもない神谷先生であるように思えたのだ。

 では、何故先生はあそこまで取り乱すのだろうか?ちよちゃんの死とは、神谷先生にとって、一体どんな意味合いを持っていたのだろうか?そのことについて考えてみたいと思う。

 

 そのためにも、まず、あの戦時中という時代が求めていたであろう男性像について考えてみよう。「ひめゆり」の一幕冒頭は男たちに赤紙が届けられるシーンで幕をあける。また、「男は武器をもって戦いへ!」と言われているなど、あの戦時中の社会において、男性は強さのある存在であることを求められている様に捉えられる。そんな太平洋戦争末期において、なお、彼が教師として教壇に立っていられるということは、神谷先生が、徴兵対象から除外される何らかの理由を持っていた、ということが考えられる。実際のところはわからないにしろ、徴兵されていない、という事実はその当時において、時代が求める強い男、という男性性から、神谷先生のことをかけ離れた存在にさせていたと思うのだ。

 戦場からかけはなれたところに存在する彼がまとうイメージは、陸軍病院にいるあの兵士たちや滝軍曹のような荒々しいものではなく、むしろ、柔らかく優しいものである。そう考えると、あのちよちゃんの死のシーンにおいて、彼が女生徒たちに混ざって悲しんでいるのも理解できる。あの時代の男性性から、かけ離れた存在として描かれている神谷先生ならば、自らは涙をこらえて学徒たちを後ろから見守っているよりも、自ら駆け寄って、誰より悲しむ姿がしっくりくるのである。

 そしてましてや、彼は彼女たちの教師なのだ。ちよちゃんの死に打ちひしがれるのは、その分の思い入れがあるからこそであり、彼女たちに愛情を注ぎ、彼女たちを守るためならば、どんな些細なことでもしただろう。その例として、米軍が近づいてきた中、陸軍病院に警報音が鳴り響くシーンが挙げられる。学徒隊たちが慌てながら防空頭巾をかぶり始める中、神谷先生はまだかぶれていない少女のそれを掴み取ると、急いで被らせ、ひもを結んであげているのだ。十六・七にもなる少女が先生に頭巾をかぶらせてもらっている。一見すると何故?と考えてしまうが、でも十六・七と言えどもまだあどけなさの残る少女だ。あのような警報音にを聞いてパニックになり、頭巾をうまくかぶれないのも無理もないことなのかもしれない。だが、防空頭巾で果たして本当に身を守れたのだろうか?と疑問が残る。それでも先生は、彼女たちの命を守るための一つの方法と信じて、できる限りの手を尽くしていたのだろう。

 この場面から想像するに、神谷先生は生徒たちの命を守るための手段なら、どんな些細なことでもしたであろう。それだけ彼女たちに対する“愛”に溢れた人物なのである。つまり、自分のことはさておき、生徒たちに尽くす、無私な神谷先生の本質は、“愛”なのである。自分の持ちうるすべてを、生徒たちに注ぎ込んできた先生。そしてその一人が、今や戦争によって命を落とそうとしている。それは、それまで先生が与えた“愛”が踏みにじられ、否定されること。すなわち、ちよちゃんの死とは、“愛”が“戦い”によって滅ぼされたことを象徴する出来事であるのだ。

 シェイクスピアによる「ロミオとジュリエット」の悲劇性は、若い二人が死んでしまうことにあるのではない。そうではなくて、若い二人を結び付けた“愛”を、“戦い”がほろぼしてしまったことにこそ、その悲劇性があるのである。「ひめゆり」に関しても、まさにその通りなのだ。ちよちゃんや神谷先生含め、登場人物たちの死そのものが、辛く悲しいのではない。彼らの心が、そして“愛”が、戦争という“戦い”によって、ずたずたに引き裂かれ、滅ぼされてしまったことが、なによりの悲劇なのである。

 上原婦長の言葉で、「どんな薬も苦しさも、まことの愛にはかなわない。」とあるが、あの戦争によって、本当の意味で痛めつけられていたのは、ちよちゃんや先生の体ではなく、彼らの心だったのかもしれない。だからこそ、先生の死を見つめてしまったときよりも、愛し慈しんだ生徒の死を前に、悲しみ嘆く先生の姿に、心を絞めつけられるのだろう。それは、神谷先生が体現している“愛”が、“戦争”によって滅ぼされるのを、観てしまったことに他ならないのである。

ミュージカル座「ひめゆり」を観て 

 先日、ミュージカル座の「ひめゆり」を初めて観劇した。その内容は、題名から思い起こされるように、太平洋戦争下の沖縄における、ひめゆり学徒隊に関する作品である。初めて見る作品、そして何より戦争もの。ということで、観劇前の私の気はすごぶる重かった。どうしてもテーマがテーマなだけに、身構えざるを得ないのだ。この事について、友人も同じ事を言っていた。やっぱり戦争ものって、ちょっと足が遠のいちゃうよね、と。

 では、なぜ、「戦争もの」、特に太平洋戦争ものを前にすると身構えてしまうのだろうか?それは恐らく、太平洋戦争中の時代が「身近でない、けれど身近な」題材であるからでなかろうか?平成生まれの私は、戦争を直接は経験していない。しかし、祖父・祖母は経験している。そして機会があると、彼らから直接その話を聞くことがある。そんな意味で「身近でない、けれど身近な」ものなのだ。

 またこの「戦争もの」に関しては、世代的な点以外でもう一つ「身近でない、けれど身近な」な理由がある。「一つの花」や「ちいちゃんのかげおくり」など、恐らく多くの人が小学校や中学校の国語の時間で触れるであろう「戦争もの」。しかしながら、ここでは「かわいそうなお話」というイメージが先行してしまい、そのテーマのもつナイーブさに、正直どう受け止めればいいか、わからない人も多かったのではなかろうか?そこには 、教員や生徒たちがはっきり口にしなくとも、ある共通の「暗黙の了解」が存在するように思われる。それは「あのような悲惨な時代を生きた人々から見たら、今の時代は幸せなのだろう。この恵まれた時代に感謝しなくては」との思いだ。けれども、この「暗黙の了解」は我々の心をじわりじわりと頑なにさせるのである。「恵まれた時代にいきているといっても、私たちだって苦しいのに…。同じように悲しみを抱えて生きているのに。それなのに幸せだと思えだなんて…。」と。

 ここで私が思うのは、太平洋戦争ものを語る際、まず時代そのものの悲惨さに焦点が当てられてしまい、それゆえに、肝心な人の苦しみそのものからは視線がそらされているのではなかろうか?ということである。確かに、戦争という自分ではどうすることも出来ない時代背景に比べれば、現代という時代は落ち着いているのかもしれない。そうとはいえども、人を苦しめるものは未だに存在する。絶望の理由が変わっただけであって、絶望そのものが無くなったわけではない。人々は日々絶望をどこかに抱えながら生きている。けれど、「戦争もの」を前にした時、「恵まれている」との暗黙の了解がむやみに押し付けられ、現代の絶望は抹殺される。過去の悲劇というものさしで、現代の苦しみを測られてしまえば、たちまち絶望は塗りつぶされ、幸せへとその姿を変えてしまう。それでは素直にはいられない。そして、その素直でいられない自分にさらに嫌気がさす。つまり、自分たちの苦しみが蔑ろにされたように感じてしまうのだ。だからこそ 、自分の心の中の矛盾した思いに気づき、後ろめたくなり、結果、「戦争もの」はちょっと…と思ってしまうのではなかろうか?

 そのような気が重い状況で劇場へ向かい、ひめゆりを観劇していたわけだが、私は思った。「戦争もの」を前にすると、「私たちは恵まれた時代を生きているから…感謝しなくては…」と思ってしまいがちだけれど、もしかしたら、そうではないのかもしれない、と。この時、初めて既存の「戦争もの」に対する暗黙の了解が姿を消し、新たな視点を得た気がしたのだ。そして、「戦争もの」を前にした時に感じる後ろめたさのようなものも姿を消したのである。

 どんな状況下においても、人生には辛い時があるわけで、それでも、もう生きていけないと思う状況を、みんな必死で生きているのではなかろうか?恵まれている、恵まれていない、という価値基準ではなくて。過去と現在、人を苦しませ、絶望させるものの違いはあれど、人の苦しみと絶望の深さには何ら違いは無い。絶望の淵に追いやられた時、人は死による解放を願う。けれども、死さえも掴み取れず、さらに絶望する。そのような中でも、まだ、なお生きている。どんな時代・状況であろうと、人は絶望して死を望むこともある。けれども、それでも、どうにかして生きていかなくてはいけないのかもしれない、と思ったのだ。

 「ひめゆり」は決して、甘く優しい夢を見せてくれるわけではない。しかしながら、少なくとも、あの少女達そして大人達の苦しみは、今の幸せなはずの現代にも共通して存在するものがあった。そんな、生きてゆくうえでの苦しみを示しているという点で、どこか「身近でない、けれど身近な」「戦争もの」が、自分の身のことのように、初めて、本当の意味で身近に感じられた瞬間であった。